COVID-19 Challenge Coin

日付;2021/07/30(金)

今日、職場からCOVID-19 Challenge Coinというヤツが送られてきた。一緒にレターが同封されていて、以下のようなことが書いてあった。

“2020年から2021年にかけて、COVID-19に対してみんなのために頑張ってくれてありがとう。おかげで街も回復しだしているよ。このお礼として、マウントサイナイ記念COVID-19 Challenge Coinをあげよう。知ってると思うけど、このコインは、わたしたちのストーリー、チームの存在、そしてミッションとかを教えてくれるよ。こういうことを克服するには、個人の犠牲もあるし、チームワークも考えることも必要だよ。過去には。9/11とか、ハリケーン・マリアなんかのときにもこれが作られたよ。このコインは、チームワークとパートナーシップがデザインされているよ。これはコインの片面に示されているよ。もう片面は、マウントサイナイは大学とか病院で働く人たちと一緒にそういったサービスが必要な人たちに対して奉仕しますよ、という意味がありますよ。まぁいうても小さなもんだけど、わたしたちの感謝を表すトークンをあげるよ。これからもがんばろうな。”

Cool.

だたのちょっとだけ重い、小さいメダルだけど、もらったときはかなりテンションが上がった。やっぱり同僚も喜んでいたように思う。一瞬だけでも指揮が上がるので、大いに意味があると思う。そして、率直に「こういうところ日本とは違うよなぁ」とも思った。以前の職場で2011年3月11日の東日本大震災時の原発事故における健康相談電話を半年以上やったことがあるが、これにしたって、あまりにも業績に考えてもらえなかったので、半年たったころからなるべく協力しないようになっていったのを覚えている。小さくても、こういった敬意っぽいことを示してもらえるだけで、満足感が上がったりする。

日本、そしてほぼ100%の日本人は、何かの困難を克服する場合の個人の犠牲の必要性とそれに対する敬意というものをきっと全く解っていないのだと思う(特に、震災とかを経験していない人たち)。こんなことを言うのは人間的な器や人格みたいなものを疑われてしまいそうだが、これは自分の親やその世代を見ていても良くわかる。結局のところ自分勝手というか、他人を全く理解しようとしないというか、そういうことを政治(政治というよりその政治の結果から)や社会(世界からの日本企業の認知のされ方・働き方・男女差別・年齢差別・給与)の随所から感じる。

2021年7月30日のCOVID-19の感染者はニューヨークでは大体2600人くらい、東京では3300人(前日は3800人)くらい居る。そして問題なのが、日本では、もう2年くらい経ちそうなものなのに、検査体制でさえ樹立されていないことである。こんな状態では統計誤差が大きく、実際は倍以上いてもおかしくないのではないかと思っている。河野太郎ワクチン担当大臣が、ワクチン供給は遅れているけど、おそらく10月(?)にはちゃんと供給される(?)だろう(ほとんど覚えていないが、そんな感じだった気がする。)みたいなことを言っているニュースをYou Tubeで朝食のときに見たけど、なぜ遅れているのにちゃんと供給されると思っているのだろうか。現状やそれを踏まえて今後起こり得る事をしっかりと考えているのだろうか。きっと考えていないか、考え方を知らないのだろう。こんなことをアメリカの現職場で言おうもんなら、「その根拠はどこにある?」とか言われて全く取り合ってもらえないか、悪くすれば結構怒られるはず。こういうことが起こるのも、日本やほとんどの日本人はすごく他力本願であり、何かの困難に立ち向かうという意味を知らないのではないかと思う。その根底にあるものは、おそらく困難に立ち向かうために生じるであろう犠牲への理解や、それに対する敬意の圧倒的な欠如なのではないかと思う。つまり「頑張って克服しなくちゃいけないけど、そんなことをやったらみんなにバッシングされるから自分は絶対にやらん。それにそんなことをやっても国や会社から何の補償もない、お金だって出してくれない、褒めてもくれない、なんの業績にもならない。自分に何か起こることはないだろうから、テキトウに流そう。協力なんかして失敗したらエラいことだから協力なんてもってのほか。絶対にしない。」となる。COVID-19やオリンピックへの対応を見ていても、克服する、成功させる、という意思が全く感じられない。なぜやる事なす事、こんなにも全部希薄なのか。

きっと何かの困難を克服しようという主体的で強い意思や個人の犠牲への敬意も払えないような性質の日本や日本人は、きっと今後、世界から取り残されて目も当てられないような、今の貧困国も負けじ劣らずの弱小国になるのだろう。